武井怜のこの世は遊び場

歌人、随筆家の武井怜のブログです

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【2度死ぬことはあるが、生き返るわけではない】

10月28日(火)


【2度死ぬことはあるが、生き返るわけではない】
ローソンの目の前で、からあげクンがひとつ落ちていた。私は小学生が3つ離れた駅のホームでクラスメイトを見かけたときのような声で、「あ、からあげクンだ!」と指をさした。一緒にいたおべんべんが「あ、こっちにもある!」と指をさした方を見ると、そこにはつぶれたからあげクンがひとつ落ちていた。それはまるで、実家の目の前で兄弟のうちひとりが車に轢かれてしまって、もうひとりが途方に暮れている様子であった。
まだ立体的なからあげクンも、轢かれたからあげクンも、「地面に落ちたからあげクン」、つまり人間は食べることができないが、猫や鳥なら食べることができるという状況である食べ物に変わりはないのだが、私は、立体的なからあげクンは生きていて、轢かれたからあげクンは死んだと思ったのだ。
しかしそれは、からあげクンを何として見るかで変わることがわかった。からあげクンをからあげという「食べ物」として見たら、前述のとおり、人間には食べることができなくても、猫や鳥なら食べることができるもののため、ふたつともまだ生きている。しかし、からあげクンを鶏という「生き物」として見た場合、立体的な方は、からあげクンになるときにだけ死んだ、つまり地面に落ちていても無傷であるため、人間が食べることができる通常のからあげクンと何ら変わりのない状態であり、轢かれたからあげクンは、からあげクンになるときに一度死に、更に車に轢かれて2度死んだことになるのだ。
「2度死ぬ」ということは、一度生き返ることができるということだと今まで思っていた。しかし轢かれたからあげクンは一度も生き返っていないことから、生き返ることができず、死だけ2度味わうこともありえることに気づいた。
私は小さい頃、嘘をついたら、死んでからえんま様に舌を切られて更に死ぬと思っていたため、嘘をつくことができなかった。ということは、生き返らずに2度死ぬことがあるのだと、実はずっと前からわかっていたのだ。